実際の撃墜スコアは、
日中戦争での撃墜数は単独11機、
太平洋戦争では単独27機である。

最終飛行時間6,000時間以上。

8年にわたる空戦経験の中で
一度も撃墜されず、
負けたことがなく、
負傷したこともなかった。

機体でへの被弾も5回のみの猛者である。

また、赤松は
大戦後期の米軍主力戦闘機
「P-51ムスタング」75機の
群れの中に単機で突っ込み、
1機を撃墜して帰還するという
伝説的な記録も残している。

この時の赤松が搭乗していたのは
既に旧式化著しかった零戦だった。

これについては

「大群に単機で突っ込めば
 相手は味方の射線を気にして
 容易に攻撃できない」 

という集団戦法の穴を突いた
頭脳プレイだったという。

自信家の坂井三郎すらこの芸当に
脱帽の意を表している。

豪快すぎて上層部からは
問題視されることも多かったが、
部下思いで人懐っこい人柄から
多くの後輩操縦士たちから
「松っちゃん」と慕われていた。

赤松は破天荒な傍ら
確固たる独自の航空戦術理論を持ち
いかなる戦闘機をも乗りこなした
頭脳派のパイロットだった。

航空隊の教官としても
数多くのエースたちを育て上げた。

本土防空のために新設された
第302航空隊に配属された折には
乙戦(雷電)隊の若手搭乗員に対して
熱心に空中戦闘方法を指導し、
B-29爆撃機迎撃で戦果を挙げた。

これは赤松の指導による
部隊全体の練度向上の成果であった。

雷電による「一撃離脱戦法」も、
機体の特性を計算し尽くした末に
たどり着いたものらしく、
後輩への指導も剛胆な性格とは反対に

「チームプレイを基軸とした
 堅実で理論的な攻め」

を重視しており、
米軍機への深追いを強く戒め、
無理に敵編隊の先頭にかかることなく
端の弱い奴から叩いて行くよう
強調して指導していた。

とにかく
エピソードには枚挙に暇がなく
誰もが愛され尊敬された

「海軍航空隊の生き字引」

というべき人物であったと言える。

戦後は地元で酒屋を経営する傍ら、
その数年後には
西日本軽飛行機協会に所属し、
海軍時代の友人たちと金を出し合い
小型飛行機を乗り回している。

酒屋との兼業で
高知漁業組合の仕事もしていた。

ただ酒好きが祟って
晩年はアルコール依存症に陥った。

戦後10年たったころ
第一次戦記ブームが起こり、
赤松も自身の回想録
「日本撃墜王」を書いている。

昭和50年、
晩年の赤松は生涯最後に取材に対し、
零戦や雷電、ソロモンの戦い、
戦友への思いを秘めながら
次のように締めくくっている。

「戦争はもう懲り懲りですが、
 もう一度あの零戦で
 今度は弾の飛んでこない大空を
 

 

思う存分飛んでみたいですね」

このインタビューから5年後
昭和55年2月22日に
赤松はこの世を去った。

享年70

最後まで空へ思いを馳せた
人生であった。