「ヒトラーのおさき棒を担いで
 弱いものいじめをすることは
 正しいと思われますか?」

1938年(昭和13年)
ユダヤ人の迫害下から逃れるため、
ソ連〜満州国の国境沿いにある、
シベリア鉄道・オトポール駅
(現在のザバイカリスク駅)
まで逃げて来ていた。

ドイツを脱出したユダヤ人たちは、
ポーランドからロシアを経て
ユーラシア大陸を横断しながら
満州国を目指したが、
約2万人ものユダヤ人が
一挙に押し寄せたため、
ドイツと同盟を結ぶ
日本の意向を恐れた満州国は
彼らの入国を拒否。

ユダヤ人たちの願いは、
満州国を通過した後は、
当時世界で唯一ユダヤ人を
ビザなしに受け入れていた
上海に向かい、
最終的には
アメリカやイスラエルなどへ逃れること。

しかし、
満州国において入国を拒否されたため、
後戻りすることもできず、
厳寒のオトポールにおいて進退窮まり、
立ち往生していたのだった。

関東軍ハルビン特務機関長である
樋口季一郎のもとに
事件の第一報が入った時には
すでに食料も底を尽き、
多くのユダヤ人たちが
飢餓と凍死の危機に瀕しているという、
まさに
一刻の猶予もない状況であった。

報せを聞いた樋口は、
ハルビンユダヤ人協会会長の
カウフマン博士からの要請もあり、
救いの手を差し伸べようとするのも、
ナチス・ドイツとの
関係を危惧する軍部はこれに強く反対。

満州国外交部は
ドイツの顔色を窺うばかりで、
主体的にユダヤ人救出のために
動く可能性は極めて低く、
彼らの命運はまさに風前の灯であった。

そんな時、
10年ほど前の古い記憶が
樋口の頭の中にふと蘇った。

それはポーランド駐在武官として
ワルシャワに派遣されていた時のこと。

当時まだ少佐であった樋口は、
一人のソ連の武官と知り合い
親交を深める。

そしてこの武官の尽力により、
当時外国人の入国を一切認めていなかった
ソ連への視察旅行に成功。

そんな旅の途中に立ち寄った
グルジアの首都チフルス郊外の部落で、
樋口は一人の貧しいユダヤ人の
老人と出会う。

その老人は樋口は日本人だと分かると、
涙を流しながら訴えてきた。

「私たちユダヤ人は、
 世界中で一番不幸な民族です。

 何処に行ってもいじめられ、
 冷たい仕打ちを受けてきました。

 暴虐の前に刃向かうことは許されない。

 ただ、神に祈るしかないのだ。

 誰をも怨んだり、
 憎んだりしてはならないのだ。

 ただ、一生懸命神に祈るのだ。

 そうすれば、必ず、
 メシア(救世主)が助けてくれる。

 神はメシアを送って助けて下さる。

 メシアは東方から来る。

 日本は東方の国だ。

 日本の天皇こそ、
 そのメシアなのだと思う。

 そしてあなたがた日本人もメシアだ。

 我々ユダヤ人が困窮している時に、
 いつか、何処かで
 きっと助けてくれるに違いない」

吹雪の中で瀕死の状態にある
ユダヤ人を目の前にした樋口は、
この時の老人の言葉を思い出し、
自ら失脚の可能性も十分に覚悟し、
「人道上の問題」として熟慮を重ねた上で、
ついにユダヤ人救出を決意。

一旦、心を決めた樋口の行動は早かった。

彼は東條総参謀長の許可も仰がず、
列車を差し回してもらうよう
交渉を始める。

もはや一刻の猶予もないのだ。

1938年(昭和13年)3月12日、
オトポールからユダヤ人たちを乗せた
救援列車がハルビン駅に到着。

出迎えたユダヤ人協会の幹部と救護班により、
車内から次々と
病人が担架に乗せられて運びだされ、
ホームはあっという間に
難民たちでいっぱいになった。

誰かれなく抱き合い、
安堵して泣き崩る者もいた。

この状況で、凍死者十数人、
病人と凍傷患者二十数名で済んだのは
不幸中の幸いであった。

樋口が判断に迷い、
救援列車の到着がもう一日遅れたら、
もっと悲惨な結果を
迎えていただろうと言われている。

人道的見地からみれば
賞賛されるべき樋口の行動であったが、
彼の置かれた立場では
事はそう簡単にはおさまらなかった。

当然のようにドイツは激怒し、
ヒトラーの腹心である
リッペントロップ外相が
オットー駐日大使を通じ、
日本外務省に対して
公式の抗議書を届けてきた。

外務省、陸軍省内部では
樋口の独断を問題視する声が
相次いでいたが、
ここにきて関東軍内部でも
樋口に対する処分を求める声が
強まっていった。

これに対し樋口は、
関東軍司令官植田謙吉大将に
自ら思いをしたためた
手紙を書き郵送。

「小官は小官のとった行為を
 決して間違ったものではないと
 信じるものです。

 満州国は日本の属国でもないし、
 いわんや
 ドイツの属国でもないはずである。

 法治国家として、
 当然とるべきことをしたにすぎない。

 たとえドイツが日本の盟邦であり、
 ユダヤ民族抹殺が
 ドイツの国策であっても
 人道に反するドイツの処置に
 屈するわけにはいかない」

さらに
関東軍司令部に出頭した樋口は
東条英機総参謀長と面会。

自らの正当性をきっぱりと主張した。

「ヒトラーのおさき棒を担いで
 弱い者いじめする事は
 正しいと思われますか?」

この言葉に納得した東條は
樋口は対して懲罰を科す事はなかった。

さらに東條は
ドイツから再三の抗議に対しても

「当然なる人道上の配慮によって
 行ったものだ」

とこれを一蹴。

ドイツの抗議は
不問に付されることとなった。

東京裁判において
ソ連からA級戦犯として
引き渡し要求があった樋口に対し、
当時ニューヨークに本部を置いていた
世界ユダヤ協会が
米国防総省に助命嘆願を働きかけ、
樋口を戦犯リストから外させた。

また、杉原千畝と共に、
安江仙弘と樋口季一郎の名が
ゴールデンブックに刻まれ、
日本イスラエル協会から
名誉評議員の称号を贈られている。