10月26日午後3時、
根本の作戦に基づく南側からの
猛攻が始まった。

夜になって銃撃砲が静まると、
敵は予想通り、
北側の海岸に向かって後退を始めた。

そこに静かに進航してきた
砲艇の火砲が炸裂した。

共産軍に逃げ場はなく、
砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化した。

午後10時、共産軍の生存者は
武器を捨てて降伏した。

正確な数字は定かではないが、
古寧頭線史館の調査によれば、
上陸した共産軍は2万、
捕虜6千と推定されている。

かくしてわずか2昼夜で
「禁門の勝利」が確定した。

勢いに乗って攻め立てた共産軍は、
主力を殲滅されたため、
その進撃は完全に止まった。

金門島はそれから60年を経た
今日も台湾領であり、
中国の海峡制圧と
台湾侵攻を防いでいる。

10月30日、
湯は幕僚たちを引き連れて、
台北に凱旋した。

その中に密かに「林保源」
こと根本・元日本陸軍中将がいることは、
集まった新聞記者たちは誰一人知らなかった。

昭和27(1952)年6月25日、
根本は羽田空港に降り立った。

小さな釣り船で延岡を出航してから、
丸3年経っていた。

出発した時と同様に、
釣り竿を担いでいた。

その頃、日本国内では、
蒋介石が戦局挽回を図るために、
日本の旧軍人たちを募兵しており、
それに根本が関係している、
との噂が立っており、
大勢の報道陣が待ち構えていた。

「台湾で何をしてこられたんですか」

との質問に、

「日本の天皇制は蒋総統の
 おかげで助かったので、
 その感謝の気持ちを
 伝えたかっただけだ」

と根本は本音を漏らした。

「でも、
 噂のような募兵計画などに参加したり、
 前線に出て部隊の指揮をとったり
 したことはないよ」

と、巧みにはぐらかした。