根本に一緒に福建に行って貰いたい、
というのは、湯自身の希望だった。

1949(昭和24)年8月18日、
根本一行は、
福建に向けて出発した。

根本らは、国府軍の軍服を与えられ、
また蒋介石から贈られた中国名を
名乗ることにした。

根本は「林保源」と名乗った。

湯に仕える兵団長らは
根本の素性などは知らされなかったが、
根本は福建の中心である
商都・厦門(アモイ)の地形、経済などを調べた。

そして即座に
「この島は守れない」
と判断した。

商都・厦門は、
厦門湾の中の島にあるが、
北、西、南の3方が大陸に面し、
狭いところでは
わずか2キロしか離れていない。

三方から攻撃を受けなければ
ひとたまりもない。

また、商業都市で20万人もの住民が住んでおり、
食糧の自給ができないため、
持久戦も不可能だった。

一方、金門島は厦門湾の外にあり、
海峡は流れが速い。

白くうねった波が遠目にも良く見えた。

共産軍が押し渡ろうとしたら、
この波を乗り越えなければならない。

人口は約4万にも満たず、
漁業やさつま芋の栽培で
暮らしていた。

「この島は『自活』できる。
 大陸との通行をたとえ遮断されても、
 ここを拠点にすれば長期間、
 戦い抜ける」と、
根本は判断した。

その夜、根本は湯に、
自分の考えを示した。

「共産党を迎え討つのは、
 金門島を置いて他にありません」

湯は押し黙った。

「福建を守る」とは
「厦門を死守する」ということだった。

仮に金門島で戦って勝ったとしても、
共産軍は厦門を落としたところで、
大きな宣伝材料にするはずだった。

蒋介石の怒りも買うだろう。

しかし戦略的には金門島を死守することが
「台湾を守る」
ための大きな力となる。

厦門は放棄し、金門島を死守する、
という基本方針が、
根本の具申通りに決定された。

その基本方針に則って、
根本は戦術を考えた。

共産軍は海軍を持っていない。

海峡を押し渡るには、
近辺の漁村から小型の
木造帆船(ジャンク船)を
かき集めて、
押し渡ってくるのは確実だ。

それを海で迎い討てば、
一時的な勝利はできるだろう。

しかし、それでは敵の損害は少なく、
勢いに乗った共産軍を押し止めることはできない。

敵の大兵力を上陸させてから一気に
殲滅することで雌雄を決しなければ、
金門島防衛は成功とは言えない。

そのために、根本は日本陸軍が得意とする
塹壕戦法をとることとした。

海岸や岩陰に穴を掘り、
敵を上陸させてから戦うという、
硫黄島や沖縄戦などでも、
圧倒的な戦力の米軍に対して
大きな損害を与えた戦法である。