そこで、根本を蒋介石のもとに
送り込むための資金作りと
渡航の工作を始めたのである。

元二郎は台湾総督まで務めたが、
金銭面は綺麗な人物で、
何の財産も残さずに死んだ。

元長の学費すらおぼつかない状況だったが、
政府の要人や友人たちが工面してくれたのである。

だから元長自身にも財産はなく、
あちこちのつてを辿って
頭を下げ、資金提供を求めた。

その甲斐あって、昭和24(1949)年6月26日、
根本は延岡港から小さな釣り船に乗り、
台湾へ向かって出港した。

根本を送り出した元長は、
疲労困憊して東京の自宅に戻ったが、
わずか4日後、突然の死を迎えた。

まだ42歳だったが、
根本を送り込む工作で、
性も根も尽き果てたのだろう。

根本は元長の手引きで、
警察や占領軍司令部で
見つからないよう、
転々としながら延岡まで行き、
手配された釣り船に乗船した。

6人の日本人が同士として付き従っていた。

延岡港の出港して14日目に台湾北端の
港湾都市・基隆(キールン)に着いた。

根本ら一行は8月1日に
台北に連れて行かれ、
湯恩伯(とうおんぱく)将軍の
歓待を受けた。

湯は根本と会うのは初めてだったが、
その名前と実力のほどは兼ねてから
聞き知っていた。

湯自身、日本に留学し、
明治大学と陸軍士官学校を出た知日派で、
流暢な日本語で根本と語り合い、
すぐに打ち解けた。

根本が来たと知らされた蒋介石は、
即座に会見を求めた。

根本らが応接室に入ると、
満面の笑みを浮かべた蒋介石が
「好(ハオ)、好、好」
固く手を握った。

根本の胸中が万感の思いがこみ上げた。

天皇制を守ってくれ、
また終戦時に在留邦人と日本軍将兵の
帰国を助けてくれた恩人に、
3年前の別れの時に
「私でお役に立つで事があれば
 いつでも馳せ参じます」
と約束していた。

しばらく話が弾んだ後で、
蒋介石は真剣な表情で、
こう切り出した。

「近日中に、湯恩伯が
 福建方面に行きます。

 差し支えなければ湯と
 同行して福建方面の状況を
 見ていただきたい」

蒋介石は長かった日中戦争で、
日本軍の実力を良く知っていた。

蒋介石はその力を
どうしても借りたかったのである。

その2ヶ月前、国府軍は上海を失っていた。

上海防衛を指揮していた湯は、
殺到する共産軍を前に、
市民を巻き込む市街戦を回避するために、
上海から撤退したのである。

大陸での最後の足場が福建だった。

ここも失えば、一気に台湾まで
存亡の危機に直面する。

湯は「最後の御奉公」
福建に赴く覚悟だった。