一つには、在留邦人、将兵の帰国は、
国府軍の庇護と協力によって
無事に行われているのであり、
それは満州を略奪し、
数十万人と言われる
日本人捕虜をシベリアに連れ去った
ソ連とは対照的であった。

もう一つは、1943(昭和18)年11月に
行われた「カイロ会談」で、
蒋介石がアメリカ・ルーズベルト大統領、
イギリス・チャーチル首相に対して、
日本の戦後の国体に関して、

「我々は日本国民が自由な意思で
 自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」

と主張し、賛同を得た事である。

ここから天皇制存続の
道が開けていった。

この時点で、国府軍と共産軍の衝突が
中国各地で始まっており、
蒋介石には、早く日本が復興して、
自分たちを支援して欲しい、
という気持ちがあったのだろう。

「東亜の平和のため、
 そして閣下のために、
 私でお役に立つ事があれば
 いつでも馳せ参じます」

と、根本中将は約束した。

在留邦人と将兵の帰国は約1年で無事完了し、
根本中将は1945(昭和21)年7月に最後の船で
帰国の途についた。

根元が東京南多摩軍の自宅に戻ったのが、
昭和21(1946)年8月。

敗戦からちょうど1年経っていた。

それから3年、国共内戦は共産党の圧倒的な
勝利に終わろうとしていた。

「自分が行かねば」と根本は思った。

蒋介石へ恩義を返すために、
日本人として「何か」をしたい。

「わが屍(しかばね)を
 野に曝(さら)さん」
と根本は決心した。

しかし、当時の日本は未だ
米軍の占領下にあり、
海外渡航は自由ではなかった。

したがって台湾に密航しなければならない。

何よりも、そのための資金もなかった。

根本を台湾に送り込むための金策と
渡航工作に奔走したのが、
明石元長(もとなが)だった。

元長は、第7代台湾総督を
務めた明石元二郎の息子で、
本人も小学校を卒業するまで
台湾で育った。

明石元二郎は総督として、
水力発電、建設所、
金融・教育・司法制度の
整備、道路・鉄道の拡充、森林保護など、
極めて大きな業績を上げたが、赴任後、
1年余にして惜しくも病死した。

その遺言により遺体は台湾に埋められ、
また明石の慕う多くの人々の寄付によって、
200坪もある壮大な墓が作られた。

その息子、元長も台湾への思いは強く、
戦後も台湾から留学生や青年を援助してた。

その縁で、李鉎源青年とも知り合っていた。

国府軍が敗走を続け、
台湾までが危うくなった時に、
元長も何かしなければならない、
と考えた。