昭和16年11月、
日米交渉が難航する中、
来栖三郎がアメリカ特命全権大使
を命じられました。

しかしアメリカに着任して
わずか1ヶ月で
大東亜戦争に突入しました。

「野村吉三郎を補佐すべし」

と課せられた使命を
何一つ果たせず、
真珠湾攻撃の宣戦布告が
遅れた「だまし討ち」との
汚名を着せられました。

外交官の来栖三郎は
かつてシカゴ領事をしていた時に
アメリカ人女性アリスと出会い、
結婚しました。

アリスはイギリス系移民の子孫で、
来栖と知り合った時には
物静かな控えめな
美しい女性であったといいます。

開戦で米政府の監視下に
置かれた来栖三郎は、
昭和17年に交換船で
日本に帰国。

失意の日々を送る来栖三郎に
昭和20年2月に長男・来栖良が
戦死したとの知らせを聞かされました。

来栖良は名門横浜高等工業
機械化(現・横浜国大工学部)を卒業し、
川西航空機に入社したエンジニアで、
その後徴兵され
陸軍第八航空教育隊に入営し、
エリートコースとして
エンジニア・パイロットとして
採用されました。

そして昭和20年2月17日、
関東地方を攻撃してきた
アメリカ海軍艦載機を
来栖良が迎撃し、
空中戦で見事に撃墜して、
一旦帰還します。

さらに二度目の迎撃で
飛び立つ為、
愛機に搭乗しようとする寸前に
滑走路の死角を急発進してきた
友軍機のプロペラに巻き込まれ、
頭をはねられて即死しました。

戦闘中の事故のため
戦士とみなされ、
1階級特進の陸軍少佐となり、
現在、英霊として
靖国神社に祀られています。

靖国神社の遊就館内には
来栖良少佐のブースが
設けられており、
青い目のサムライとして
写真が飾られています。

来栖良は白人と言っても
通用するマスクで、
日本人離れした容貌でしたが、
性格は竹を割ったような
率直な誰からも愛される
人気者でありました。

戦友たちは口を揃えて
「来栖はあらゆる意味で
 大和魂を体現した男であり
 日本男児の典型だった」
語られています。

戦後間も無く、
軽井沢に隠棲していた
来栖夫妻のもとを
進駐軍が訪問して、
このとき米軍将校の一人が
居間に飾られている
来栖良の遺影を指して、
母親アリスに

「あなたのご子息が戦死されたのは
 大変お気の毒なことだ。

 彼は日本軍の犠牲になったのだ」
言いました。

するとアリスは毅然と
このように応えました。
「息子は愛する祖国日本を
 守るために尊い命を
 捧げたのです。

 彼は日本軍の勇士として
 死にました。

 このような息子を持ったことを
 私は誇りに思います」

これを聞いたアメリカ将校は
何も言えず、
無言で立ち去ったという。

その後、アリスも息子と同じように
日本と運命を共にし、
日本人として日本で
亡くなりました。

周りが何を言おうと
日本民族としての誇りだけは
捨てずに生き抜いたのです。

かつてビスマルクは
このように語りました。

「国家は敗戦によっては滅びない。

 国民が国家の魂を失った時に滅びる」