マルタ島に散った誇り高き英霊たち

地中海にあるマルタ島。

そのカルカーラの丘の英海軍墓地
の一隅に、

「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」
が建っています。

なぜこんな遠くの地に、
しかも墓碑までもが建てられた
のでしょうか。

3人の共産主義者のセルビア青年が
オーストリア皇太子夫妻を暗殺した
サラエボ事件に端を発した
第一次欧州戦争。

オーストリアの同盟国はドイツなど。

これに対しセルビア側にはロシア、
フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、
日本などの連合国が対峙しました。

この第一次欧州戦争でドイツは
ヨーロッパ戦線が膠着していたため、
ドイツは地中海で潜水艦Uボートによる
無差別攻撃を決行しました。

そのため兵員などを輸送する
連合国の船舶被害は激増しました。

これに音をあげたイギリスは
同盟国でもある日本に派遣を要請します。

我が国は大戦当初、
支那の青島やマリアナ諸島方面に
展開するドイツ海軍に対する作戦もあり、
艦艇を地中海に派遣する余裕は
ありませんでしたが、
連合国の輸送船を護衛するために、
巡洋艦「明石」と駆逐艦8隻からなる
第二特務艦隊を地中海に派遣する
ことにしました。

日本の艦隊が現地到着した頃には
連合国の船舶被害は甚大であったため、
我が帝国海軍は長期行動であるにも関わらず
休養もないまま直ちに護衛任務を
要請されました。

船舶の護衛とともに被害を受けた艦船の
救助活動も重要な任務でした。

戦闘中の救助は作業は
自らを危険にさらすことでもあり
容易なことではありませんでした。

また救助活動で多数の救助者が
艦内に収容され食料や水は
たちまち底をついたにも関わらず、
日本兵たちは自分たちの食糧はおろか、
衣類や寝場所まで彼らに与え、
自分たちは空腹と不眠のまま
任務を遂行しました。

大正6年5月、我が帝国海軍の
「榊」「松」の駆逐艦2隻は、
魚雷攻撃を受け沈没していく
兵員輸送船「トランシルバニア号」
の救援に駆けつけて、
敵の潜水艦の目前で、
しかも敵と戦闘しながら、
なんと乗員約1,800名を救助しました。

これは奇跡とも言われるくらい
常識破りな行為であり、
帰港したイタリア・サボナでは
帝国海軍の日本兵たちを
英雄として大歓迎しました。

また、大正7年、駆逐艦「桃」「樫」は、
魚雷を受け自力で航行出来なくなった英船
「パングラス号」を不眠不休3日3晩、
戦闘しながら、しかも潜水艦に
襲撃される危険も恐れずに
同船を曳航してマルタに無事届けました。

この快挙にマルタの町は感極まって
日の丸で迎えてくれたのです。