「ぺ島の桜を讃える歌」

日本の”桜”は 春いちど
見事の咲いて 明日は散る
ぺ島の”桜”は 散り散りに
玉砕れども 勲功は永久に

昭和56(1981)年1月
パラオがアメリカから独立、
パラオ共和国が誕生した。

この独立を記念して、
ペリリュー島民が
「ぺ島の桜を讃える歌」を作った。

この歌は、かつてペリリュー島で、
日の丸を掲げて協力な米軍と戦った
日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、
大きな尊敬を捧げる歌である。

作詞、作曲は
ペリリュー島の島民であるため、
恐らく桜を見たことはないだろう。

しかし、ペリリュー島の玉砕戦を、
日本の国花・桜に託し、
見事に歌い上げている。

なぜ、パラオの人々が
このような歌を作ることができたのか。

今回は、ペリリュー島と日本との
深い繋がりをご紹介する。

パラオは、明治18(1885)年に
スペインの植民地となった。

スペイン人によってもたらされた
天然痘や、
略奪、殺戮の結果、
パラオの人口は
当時90%も減少したといわれている。

明治32(1899)年、スペインは、
グアムを除くスペイン領ミクロネシアを
450万ドルでドイツに売却。

この中に、パラオも含まれた。

大正3(1914)年に
第一次世界大戦が開始されると、
ドイツに対して宣戦を布告した日本が
海軍を派遣し、
ドイツ守備隊を降伏させて
これを占領した。

大正8(1919)年、
第一次世界大戦の戦後処理をする
パリ講和会議によって、
パラオの日本の
”委託統治領”になった。

当時のパラオの人口
(パラオ先住民の人口)は、
約6000人。

スペインによって
植民地にされる前の人口は、
約6万人だったともいわれており、
いかに西欧の植民地政策が
凄まじいものだったかが、
推測される。

日本は、この島に南洋庁及び
南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、
稲作、なす、きゅうり、さとうきび、
パイナップルなど
野菜や果実の栽培を持ち込んだ。

また、
缶詰やビールなどの工場を建設し、
道路を造り、舗装し、
橋を架け、電話をひき、
学校、病院をつくるなど、
各種インフラの整備を行なった。

さらに日本は、
パラオの住民すべてに対して、
無料で数種類の疾病に対する
予防接種を受けさせている。

1920年代の
パラオの町並み

この写真は、
大正から昭和初期に
撮影されたとみられる
パラオの町並みの写真である。

画面の右側に
ハングル文字が映っている。

当時、日本人とともに
パラオに来ている朝鮮人のために、
彼らの文化を尊重したお店があり、
ハングル文字の看板も出ている。

日本は、民族の共生と共和を図っていた
ということが、
この一枚の写真からも見て取れる。

そのパラオでは、当時はまだ
パラオの言語を顕すための
文字がなかった。

そこで日本は、
パラオに尋常小学校を立て、
文字をもたないパラオの人々のために、
日本語教科書を用いて、
日本語教育を行っていた。