江戸時代末期
日本はこれから
激動の時代を迎える。

ヨーロッパから遠く離れた国
日本の出来事が
当時、ヨーロッパでも
関心があったようで
新聞記事として
紹介されていた。

■日本開国のニュース■

私が日本に来る
12年前のことである。

日本では当時ペリイ提督が
神奈川にやってきて、
将軍の大平の眠りを覚ましてゐた。

フランスやイギリスでは、
帝国日本が鎖国と解いて
ヨオロッパに開国した

といふニュースが、
大変な評判となってゐた。

新聞には、熱っぽい賛辞が並んだ。

といふのも此の高貴な国は、
16世紀には
フランシスコ・ザビエルの手紙に
熱っぽく紹介されたからだ

開国後、最初に
日本に派遣されてきた
カトリック宣教師の一人
エメ・ヴィリヨン神父の回想である。

当時の日本は、鎖国を行なっていた。

一部の宣教師からの報告など
限られた情報で
日本の情報は少なかったためか
当時の日本の開国が、
欧米諸国で大きな
ニュースとなっていた。

その矢先に、
欧米人の胸に強く
日本人の特性を
印象付ける事件が起こった。

■密航を企てた日本の青年■

「センチュリイ」といふ
新聞に掲載記事である

と或る日の夕方、
キリッとした身なりの
気高き風貌の日本の青年が、
ちっぽけな小舟を漕いで、
同艦に乗り込んできた。

アメリカで勉学をしたい、
船に乗せて連れて行って欲しい、
といふ事を、懇願した。

提督は、この勇敢な青年の
懇請をけって、頑固に反対し、
拒絶するのである。

青年は、もしも陸に
送り帰されると、将軍の追求で、
生命の危機すらあると
述べた。

しかし、アメリカの提督は
強情にも、拒絶した。

本当に残念な事である。

その青年が出国したところで、
厳重な鎖国下の専制政治に
傷がつくこともあるまいに
云々と、新聞は非難し
てゐると言ふ。

あとで余り厳しく罰せられなければよいが・・・

その当時、
名前こそ新聞には出て
ゐなかったが、
この青年こそ他ならぬ
吉田松陰だった。

吉田松陰が
欧米諸国の知識を学ぼうと、
ペリーの船に乗り込んだ事件。

ヨーロッパでも
大きく報道されていたのだった。

■ペリーの共鳴■

ペリー提督は、
ヴィリヨン神父が思ったほど、
実は頑迷ではなかった。

松蔭の勇気ある行動に
共鳴していたのだが、
日本との外交関係を考えて、
拒否せざるを得なかったのである。

「ペリー日本遠征記」の著書
ホークスは、次のように
事件を描写している。

(松蔭達は)かなり苦労して
旗艦へたどり着いた。

甲板までやって来ると、
士官は二人の来た事を
提督に通告した。

提督は通訳を差し向けて
訪問の目的を知った。

彼らの目的は、
合衆国へ連れて行ってもらって、
国内を旅行し、世界を見たい
という希望を満足させる事だと、
率直に告白した。

実は前をもって彼等は陸で
士官達に会い、
その一人に手紙を渡していた。

小舟でやってきたため、
ひどく披露してみえた。

立派な地位の
日本の紳士だとは分からなかったが、
着物は旅でだいぶ
くたびれていた。

彼等は教養を身につけており、
流暢に、また、
優雅に標準的な漢文を書いた。

動作は礼儀正しく、
非常に洗練されていた。

提督は日本人をアメリカへ
同行させたいが、
受け入れるわけにはいかないことを
残念に思うと伝えた。

彼等が幕府から許可を
得るまでは二人は拒絶せざるを
得ないと語った。

送り返された松蔭は、
潔く幕府に自首し、
囚われの身になる。

ペリーは、
「些細な行為だからと、
 役人に対して服すべき刑罰を
 軽くして欲しいと願った」

ホークスは、この事件から
受けた日本人の印象を
次のように語っている。

厳しい国法を犯し、
知識を増やすために
生命まで賭そうと
教養ある日本人の激しい
知識欲を示すもので
興味深いことだ。

しかし、松陰の想いは
そんな想いでは
もちろんなかった。