英国で公開された機密資料が、
世界中で話題になりました。

その内容を多くの日本人は知らないでしょう。

今回は英国で公開された機密資料に記載されていた
昭和天皇の真実についての内容です。

その真実とは、昭和天皇が戦争を
止めようとしていたという事です。

資料の内容は、当時の駐日英国大使が
昭和天皇に対する見解を報告したもので、
昭和天皇は一貫して軍国化に反対しており、
実際に出来たのは1936年の軍事クーデターの鎮圧と、
1945年の降伏のみだったというものです。

その駐日英国大使は英政府側に、

「彼(昭和天皇)の権限は限られたもので、
 日本が軍国主義に傾いていくのを止めるには、
 彼は結果的に無力だった」

このように昭和天皇の戦争責任に否定的な
見解を伝えていた事がわかりました。

戦争責任に関しては、

「ヒロヒトは日本の政策の方向性に違和感を持っていた」
「戦争へ向かう動きを妨害するために、個人的な影響力を
 行使しようと一貫して試みた」などと言及。

「あの時代の国家元首として、天皇が戦争責任を
 完全に免れることは出来ない」としつつも、
「彼は最終的に無力だった」とし、
「これが今日に日本での通説だ」とまとめています。

天皇には自ら決定する
権限はありませんでした。

これは大日本帝国憲法にも
記されていることです。

第8条にこのように記載されています。

緊急時に、国会が閉会していたりしたら、
天皇陛下は法律の代わりに勅令を出せる(第8条)

しかし、勅令は、次に議会が始まったら、
その勅令を残すか取り消すか
話し合わないといけない(第8条2項)

そして第55条に国務各大臣は
天皇を助け手伝って実務を行いその責任を負う。

全ての法律、勅令、国務に関する詔勅は大臣の署名が必要。

このように書いてあります。

つまり政府や軍から上がってきた草案を、
しきたり通り裁可する以外のことは
許されていなかったのです。

実際にこのようなエピソードがあります。

1937年の盧溝橋事件を機に日中戦争が始まり、
40年に日独伊三国同盟を締結。

そして41年の対米宣戦布告へと、
日本は戦争への道を突き進んでいきました。

御前会議前日の41年9月5日、
昭和天皇は近衛文麿首相から政府方針である
「帝国国策遂行要領」の説明を受けました。

第1項が対米戦争の決意、
第2項が外交手段を尽くすとなっており、

「戦争が主、外交が従であるが如き感あり」

と不満を述べ、順序を改めるよう求めました。

首相は軽重の順ではないと答えましたが、
昭和天皇は納得しません。