終戦を迎える1945年、
米国のフランクリン・デラノ・
ルーズベルト大統領は
4月12日の昼食後、
脳卒中で倒れて他界した。

これに対して、その僅か5日前の
4月7日に大日本帝国の
総理大臣に就任したばかりの
鈴木貫太郎氏が
哀悼の意を世界に発信した。

鈴木貫太郎
(慶応3年12月24日生まれ
昭和23年4月17日没)

昭和20年4月7日、
鈴木貫太郎七十七歳は
「非国会議員」
「江戸時代に生まれた」
という2つの点で総理大臣を務めた
最後の人物になる。

「老人で
 ございますから」
と固辞する鈴木に、
陛下が、
「もはや
 卿しかいないのだ」
と言われた。

皇太后も、
陛下の父親と思って
引き受けて欲しい、
と言われた。

長年侍従長を務めた
鈴木の妻は、
陛下の乳母であり、
陛下は鈴木の妻を
母のように
慕っておられた。

この陛下の言われた
「もはや卿しかしない」
という言葉の意味は、
戦を収めること、
つまり
終戦に漕ぎ着ける
ことができるのは
鈴木しかいない
という意味である。

この時、戦を
収めることほど
困難はなかったのだ。

さて、天は鈴木に
昭和20年8月15日の為に
命を与えてきた。

鈴木は、幼い頃、
暴走する馬の足の下に倒れた。

しかし死ななかった。

それを観ていた人は、
鈴木の運の強さに驚いた。

海軍士官となった鈴木は
水雷艇艇長(日清戦争)そして
駆逐艦司令(日露戦争)となって、
それぞれの海戦で、
敵艦に機銃が届く至近距離まで
肉薄して魚雷を放つという
命知らずの必殺の戦法をとって
敵戦艦数隻を撃沈する
殊勲をあげた。

つまり、特攻作戦である。

生きているのが不思議と言われた。

部下は彼のことを鬼貫太郎、
鬼貫と呼んだ。

昭和11年2月26日未明、
侍従長出会った鈴木は、
安藤輝三大尉の率いる
歩兵第三聯隊の兵に襲われ、
頭部、胸そして大腿に
銃弾をうけて昏倒した。

トドメをさそうとする安藤大尉に
鈴木の妻が

「おやめください。老人ですから
 トドメはささないでください。

 どうしてもというなら
 私がトドメをさします」
と言って止めた。

安藤大尉は、鈴木に敬礼して
退出した。

その後妻が、
意識のなくなった鈴木の耳元で、
「あなた、しっかりしなさい」
と叫ぶと、
鈴木は目を開け蘇生した。

昭和23年に鈴木は死ぬが、
彼を火葬した後に遺骨と共に
2・26事件の時に打ち込まれた
銃弾があった。