インドネシア政治犯の歓迎

豪軍から10年の判決を受けた後、
今村は今度はジャワに
護送された。

オランダ軍からの裁判を
受けるためである。

インドネシアの独立を目指した
政治犯ら1500人が
収容されている
ストラスウェイク刑務所に
ただ一人の日本人として
拘留された。

食事を運んできた現地人の
世話人がたどたどしい日本語で
言った。

日本時代の最高指揮官が
ここには言ったことを、
みんなとても喜んでいます。

それは今夜7時に、
歌であなたに伝わるでしょう。

その夜、7時の点鐘を合図に、
地の底から湧き立つような
大合唱が始まった。

それは今村自身が懸賞募集した、
日本人とインドネシア人が
双方の国語で一緒に歌う
「八重潮」であった。

この歌はジャワ島の町から
村へと広がり、
日本の将兵と現地人が同席すれば、
かならず歌われたという。

獄中の今村は感動に
目を潤ませた。

スカルノの友情

やがて今村は約700人の
日本戦犯容疑者を
収容しているジャカルタ市内の
チビナン刑務所に移され、
裁判にかけられた。

ある日、百二、三十人いる
現地人政治犯の中に
インドネシア独立軍の将校二人が
今村の房にやってきて、言った。

これは(インドネシア)
共和国からの指示です。

もしあなたの死刑が確定したら、
共和国政府は、
刑場に行くあなたを奪回します。

その場合は、ためらわず
共和国側の自動車に
乗り移って下さい。

日本統治時代に協力し、
今は独立軍を指揮するスカルノは、
何としても今村を
助けたかったのである。

しかし今村はその好意に
感謝しつつも、申し出を断った。

日本の武士道では、
そのような方法は生き延びることは
不名誉とされている。

まして私を救うため、
独立軍とオランダ兵が
鉄火(銃火)を交え、
犠牲者は出るようなことは
絶対に避けたい。

マッカーサーの感動

幸い、オランダによる裁判では、
今村の紳士的な態度に
共感した裁判官により、
無罪の判決が下った。

そこにラバウルに収容されていた
戦犯230名が、
マヌス島に移されたという
知らせが入った。

赤道直下の酷暑火炎の小島で、
重労働と粗食、
不衛生な宿舎のため、
病人が続出し、
半数は生きて帰れないのでは、
という悲惨な状況であった。

特に今村が去ってからは、
豪軍監視兵の虐待、
暴行甚だしいという。

今村は、豪軍裁判による
刑期を務めるべく、
ただちにマヌス島に
自分を送還するようにオランダ軍に
申請したが、
激しい独立軍との戦闘に疲弊し、
撤退を決めていたオランダ軍は
日本人戦犯700人を
全て巣鴨拘置所に
送ることにしており、
今村の申し出は
聞き入れられなかった。

かくして、今村は、
昭和25年1月、
7年3ヶ月ぶりで日本に帰還した。

今村は到着早々、
巣鴨刑務所長に何度も
マヌス島送還を依頼したが、
どうしても応諾してくれない。

ついには、ツテを探して、
マッカーサー司令部の高官に
直接マヌス行きを申請した。

これに対し、マッカーサーは
次のように言ったと伝えられている。

私は今村将軍が
旧部下戦犯と共に服役するため
マヌス島行きを
希望していると聞き、
日本に来て以来初めて
真の武士道に触れた思いだった。

私はすぐに許可するように命じた。