新たな戦い

こうした今村の配慮が功を奏し、
将兵達は規律を維持したまま、
帰国を待つ生活を続けていたのだが、
昭和20年12月5日、
暗いニュースが伝わった。

高屋大佐をはじめ69名が
戦争犯罪容疑者として指名され、
収容されたのだった。

オーストラリア軍の師団長
イーサー少将は、
ラバウルでの戦争犯罪について、
すでに調査を終え、
本国政府に「ラバウル方面には、
戦争犯罪を持って問うべきものは
ない」と報告していた。

日本軍の対空砲火で撃墜され、
パラシュートで脱出した
パイロットなど、
少数の白人捕虜がいたが、
彼らはラバウル内の小さな島に
収容され、国際規律に従った
取り扱いを受けていたのだった。

しかしオーストラリア政府は、
イーサー少将に戦犯摘発は
強く命じ、
シナ人やインド人などの
労務者を誘導して、
どんな些細な事柄でも報告させ、
その一つ一つを
告訴してきたのである。

部下を戦犯裁判から救うべく、
今村の新たな戦いが始まった。

ラバウルの戦犯裁判

ラバウルの戦犯裁判は、
ほとんどがインド人、
支那人などの労務者の
虐待容疑だった。

例えば、
「衛生勤務者として、
インド人労務者の患者を虐待した」

という理由で死刑にされた
酒井伍長は、次のように
今村に語っている。

インド人患者の多くが熱帯潰瘍か、
マラリアに関わっていました。

血の一滴とも言われる
貴重なマラリアの予防薬
キニーネやアテブリンを、
にがいとか胃に悪いと言って
捨てているものもいました。

そういう者を見つけると、
私はこらしめのため、
平手で頰を打ったことがあるのです。

言葉がよく通じませんので。

憎しみの気持ちではなく、
早く治してやりたかったのです。

インド人や支那人は
賃金労働者として雇われて
ラバウルに来たのだが、
2年以上も日本軍のために
働いたので、
連合軍から罰せられる事を恐れて、
マレー半島や南京で俘虜になって、
無理にここに連れてこられたと
言い張ったのです。

訴えを起こした労務者達は
告発状を残して帰国してしまう。

従って、弁護側は
反対尋問をする機会も
与えられていなかった。

結局、ほとんどの裁判で
原告側の主張を鵜呑みにした
判決が下された。

片山は処刑の前に
戦犯収容所長アプソン少佐あてに、
「裁判を乗ろう気持ちなど、
もう持ってはいない。

…最後に、1日も早く
豪州と日本との親善関係が
旧に復する事を祈る」
という遺書を残し、
少佐を感動させた。

今村は、こういう部下を
一人でも救うべく、
自ら志願して収容所に
飛び込んでいったのである。

戦犯裁判は戦闘だ

今村は、外人労務者は
日本軍が賃金で雇ったものであり、
戦争捕虜ではないから、
万一虐待があったとしても、
それは戦争犯罪ではなく、
日本の国内法によって
裁くべき事、
それでもなお戦争犯罪として
取り上げるなら
最高指揮者である自分を
裁くべきだ、と主張した。

最初にこの訴えをしたのが、
昭和20年12月、
繰り返し回答を督促し、
敵軍側から根負けした形で、
今村の収容所入りが
実現したのが、
翌年4月28日だった。

最高指揮者としての
今村の裁判は最後に回され、
それまで、今村は
部下の一人一人の裁判に
徹底的に介入した。

「戦犯裁判は戦闘であり、作戦だ、
勝たねばならぬ」と言って、
少しでも被告の有利になるように
知恵を絞った。

例えば、終戦時に
全く別の島にいた
中沢という海軍の軍属が
微罪で告訴されたとき、
今村は
「君は現役の時、
陸軍で中国にいたそうだな、
わしも中国にいた。

その時、わしの当番兵
だったことにして、」

とでっち上げて、
中沢は現地民に虐待するような
兵ではないと説明した。

もともと証拠もない
事件だったので、
今村の証言が決め手になって、
裁判無しの不起訴とすることができた。

また今村側近の参謀長だった
加藤中将の裁判では、
「俘虜の不法使役」の件で、
お互いにそれは自分の
責任だとして譲らず、
大喧嘩をした。

加藤は「参謀長通達」
出したのだから
自分の責任だと言い、
今村は「参謀長には命令権はない。

司令部の書記と同じような者だ」
とまで極論して、
全て自分の責任だと主張した。

結局、裁判では今村の強引な
主張が通って、
加藤中将は無罪放免となる。

今村は自分の裁判では、
10年の禁固刑の判決を受けたが、
これについて次のような
感想を記している。

事実、私は監督責任者であり、
父老の愛児を預かっていた
身でもある。

処刑される若人たちを
見守ることは、
これこそ義務であり、
情においても願われたことである。

判決を受けてすぐ、
今村は同時に下された部下への
判決に対して、
再審の請願をしている。

自分に対する判決については、
何も触れずに。