マッカーサーを
諦めさせた堅固な要塞

8ヶ月のジャワでの軍政の後、
昭和17年11月、
今村は第8方面軍司令官として
ラバウルに向かった。

ラバウルはニューギニア島の
東のニューブリテン島にある
軍港である。

ミッドウェー海戦の敗北を契機に、
米軍は反攻を始め、
いずれここが戦場となる
運命であった。

今村は日本からの会場補給は
いつまでも続かないと判断し、
現地で自活しつつ、
持久戦を展開する方針を立てた。

国内から農事指導班、
農具修理班を呼び、
陸稲や野菜の種子を持ち込み、
中国人、インド人、
インドネシア人などの労務者
4千人を集めた。

今村自ら率先して
開墾作業に従事し、
昭和20年には一人当たり
200坪の耕地面積を開墾して、
陸軍将兵7万人の完全な
自給自足体制が出来上がった。

昭和18年10月からは、
連日400機以上の
大編隊の空襲に耐えうる
地下大要塞の建設に着手する。

壕の入り口には爆撃の衝撃を
緩和させる為の土嚢の
障壁を配置し、
また、壕内には入り口付近での
爆発の爆風を緩衝させる為の
障壁を設け壕内部を
猛爆から防御したものであった。

完成したのは、
幅1.5m、高さ2.1mの洞窟で、
もし一列に並べれば、
370kmもの長さになる。

15センチ砲までも
地下に格納され、
レールで移動できるようにされた。

合計5500人もの
収容能力のある病院も
洞窟内に作られた。

昭和20年に入ってからも、
猛爆撃が続いたが、
地下要塞内では、
ほとんど被害を受けなくなった。

マッカーサーの参謀達は、
「現有勢力で、このような堅固な
敵陣地をどうしたら、
占領できるか、見当がつかない」
と投げ出した。

マッカーサーは
「そんな堅固な所は、
占領しないことにしようじゃないか」
と言い、空爆を続けるだけで、
迂回して侵攻を続けたのである。

敗戦後のご奉公

昭和20年8月16日、
今村は電報を受け取った
終戦の詔書を、
部隊長ら約60名に読んで聞かせ、
別辞を述べた。

諸君よ、どうか部下の若人達が、
失望、落胆しないよう
導いてくれ給え。

7万人の将兵が汗とあぶらとで
このような地下要塞を建設し、
原始密林を拓いて
7千町歩の自活農園までつくった。

この経験を、この自信を
終始忘れずに祖国の復興、
各自の発展に活用するよう
促してもらいたい。

敗戦のどさくさで、
耕地のことなど忘れていた将兵に、
すかさず今村から
新しい指令が出た。

ラバウル将兵は今後も
現地自活を続け、
将来日本が賠償すべき金額を
幾分なりとも軽減することを
はかる。

これは我々の外地における
最後のご奉公である。

今更、自活でもあるまい
という気持ちもあったが、
黙々と畑に立つ今村の姿を見ては、
誰も何も言えなかった。

祖国の復興に役立つ
社会人とするために

そのうちに、日本政府の
海外部隊引き揚げの案が、
ラジオのニュースで伝わってきた。

ラバウル部隊の引き揚げ完了は、
なんと3年半後の
昭和24年春になると言う。

この3年半を兵士らの教育に
使おうと今村は考えた。

規律ある生活を維持するためには、
目標が必要である。

また帰国後も生計を立て、
祖国の復興に役立つ
社会人となってもらうためには、
兵士たちの知識、
教養面の低さが障害になると考えた。

兵の多くは小学校卒であり、
差し当たり中学程度の
学識を与える事を目標にした。

軍の中の教職経験者を集めて、
英語や数学などの教師とし、
教科書も作成させた。

和歌や俳句、漢詩などの
教養講座も設けた。

さらに「かがみ」と言う
謄写版刷り60頁もの
雑誌を発行し、
将兵の創作した小説や和歌、
俳句、世界情勢解説や
英語講座などを掲載した。

当時、将兵達は
オーストラリア軍の捕虜となり、
無報酬で作業させられていた。

これは明確な国際法違反なのだが、
将兵達は不満も忘れて、
作業の合間に教科書や
雑誌に読みふけった。

海の外(と)の陸(くが)に
小島の残る民の上安かれと
ただ祈るなり海外に残された
居留民や将兵らの安危を
一心に気づかわれた
昭和天皇の御歌であるが、
これはまた肉親の無事の帰還を
ただ祈る国民の気持ちでもあった。

今村は、7万人の将として、
自らその祈りに答えていたのである。