天皇への道
明仁天皇 11歳の御覚悟

終戦の玉音放送に、殿下は
「つぎの世を背負って新日本建設に
進まなければ」と決意された。

疎開先での殿下の生活

昭和20(1945)年7月12日朝、
日光の朝空はうららかに晴れ、
山々の谷間からは
朝霧が立ちのぼっていた。

学習院初等科6年生66名は、
重いリュックを背負い、
水筒を下げ、
遠足にも出かけるように
はしゃぎ回っている。

その日は、生徒たちが疎開していた
日光から、さらに奥の湯元に
再移動する日だった。

すでに近くの宇都宮市も空襲を受け
大部分が焼失していた。

疎開先の日光も
空襲警報が頻繁に出て、
昼の勉強も夜の睡眠も
十分にとることができない
状態だった。

奥日光に着くと、一行は
南間ホテルに入った。

ここにはすでに陸軍の少年航空兵
(中学1、2年ぐらい)
約100人が疎開していたので、
超満員になった。

9日ほど遅れて、皇太子殿下
(今上陛下)がお着きになった。

殿下は2階の一室を居間兼勉強室
とされたが、
おやすみになる時以外は、
ほとんど他の生徒たちと
一緒に過ごされた。

食事はホテルの食堂で
一緒にとるのだが、
食糧難の折り柄、
ランチ皿の上に軽く一杯のご飯と、
ささやかな野菜の煮付けだけだった

殿下や学友たちは、顔は青白く、
頬は落ち、手足は細り、
少し駆け回ると
疲れてしゃがみこんでしまう。

軍事教官の高杉義治・陸軍中佐は、
この状態を見るに忍びず、
東京の近衛師団司令部に行って、
食糧援助を懇請した。

水谷一生・参謀長は、
しばらく考え込んだ後、
こう言った。

国民全部が勝つために
あらゆる困苦欠乏に耐えて
戦争に協力しているときに、
殿下だからといって
米の特配をするということは
許されるべきことではない。

もしそれをすれば皇室に対する
国民感情を悪化させる恐れがない
とはいえないであろう。

この際はお苦しいことで
まことに恐れ多いことではあるが、
頑張ってもらいたいと思う。