平成3年(1991)、湾岸戦争時に
イラクがペルシャ湾に敷設した
機雷を除去するために、
海上自衛隊の掃海部隊が
派遣された。

ペルシャ湾沿岸で採掘された原油は
巨大なタンカーで日本を含め
世界各国に運ばれる。

そこに敷設された機雷は、
世界へのエネルギー供給を
脅かす存在であった。

指揮官だった落合元海将補
(当時、一等海佐)は
こう語っている。

「とにかくアジア各国は
我々掃海部隊を
大歓迎で迎えてくれましたよ。

最初の寄港地
フィリピンでもそうでしたし、
またシンガポールでは
軍の最高司令官から
「東洋・アジアを代表して
どうか頑張ってきてください。

よろしくお願いします

そのための支援なら
なんでもしますので遠慮なく
言ってください」
とまで言われたのです。

またペナンでも、
スリランカでも、そして
パキスタンでも
同様の大歓迎を受けました。

ところが、日本から
FAXで送られてくる新聞記事に
我々は目を疑いました。

当時日本のマスコミが
報じていたのは、我々が体験し、
目の当たりにしている
アジア各国の大歓迎ぶりとは
まるで異なる
「アジア各国の不安や対日警戒」
なる虚構でした。

結局、彼らは
ありもしないことを捏造して
国内で報道していたわけです。

我々は船上でこの事実を知って、
怒りを禁じ得ませんでした」

当時、日本の一部マスコミは、
自衛隊の海外派遣は
「アジア各国の不安や対日警戒」
を引き起こす、という理由で
反対していたのだから、こうした
「不都合な真実」
ありのままに報道するわけには
いかなかっただろう。

しかし、初の海外派遣に
511名の隊員の士気は
すこぶる高かったという。

落合元海将補は
こう振り返っている。

「派遣隊員の平均年齢は
32.5歳でしたから、
結婚適齢者が多かったんです。

12月頃から準備して
5〜6月には
結婚を考えていたのでしょうが、
部隊のペルシャ湾派遣が決まるや
凛然として任務を引き受け、
挙式を延期してまで
この任務に参加した者も
おりました。

本当に頭が下がる思いでしたよ」

娘の結婚式を欠席して
この派遣部隊に加わった
年配の隊員は、
結婚式が始まる時間に、
掃海艇の後部甲板に立って
祖国の方角に一礼していたという。

掃海部隊は
MDA-7と呼ばれる海域で
掃海を行ったが、ヨーロッパ勢は
平成3年7月終わり頃に
引き揚げてしまった。

日本はアメリカと共同で
引き続き過酷な環境下で
MDA-10と呼ばれる海域を
掃海することになる。

この海域には
イランの海域が含まれており、
外交上難しいものがあった。