戦前は情報機関の
「陸軍中野学校」があった。

彼らは特務機関として
米・英・仏・蘭に
植民地支配されていた
アジア各国に行き、
独立を支援した。

当時、日本は支那事変が
長期化していたため、
事変を終結させるために
欧米から蒋介石国民党に
支援されていた
武器や物資のルート
「ビルマルート」
遮断することにした。

ビルマは英国の植民地であった。

陸軍中野学校出身者を中心に
「南機関」をつくり、
機関長は鈴木敬司大佐とし、
ビルマ独立を目指す若者と結んだ。

この「ビルマ三十人の志士
密かにビルマから脱出させて、
海南島に軍事施設を開設して
彼らを徹底的に軍事訓練した。

鈴木大佐は北部タイで
200名のビルマ独立義勇軍を
結成する。

昭和17年1月4日、
南機関が養成したオン・サンや
ネ・ウィンら三十人志士を先頭に
ビルマに入ると、
まるで英雄のように
ビルマ群衆から熱狂的に
迎えられ、
ビルマ国民軍は
雪だるま式に増え、
その勢いでラングーンを
没落させた。

この時のことを、
後にビルマ首相になった
バー・モウが著書
『ビルマの夜明け』

「来る日も来る日も
群衆がパゴタを訪れ、
人々は日本語で
『バンザイ』を叫んで、
日本に対する深い感謝を現した」

と書いてある。

このビルマ国民軍は戦後、
ビルマ国軍の母体となる。

鈴木敬司大佐が
内地に戻る時、
ビルマ国民軍は別れを惜しみ
「軍刀」「感謝状」を贈った。

感謝状にはこのように
書いてあった。

「鈴木将軍は
ビルマ独立軍の父である。

この恩人を我々は
末永く忘れない。

たとえ世界が滅んでも
我々ビルマ人の感謝の気持ちは
滅びることはない。

将軍は日本に帰ったら、
是非とも天皇陛下や東條首相、
そして日本国民に知らせてほしい。

我々ビルマ人の誠意、
忠誠心、勇気、そして
日本とビルマの友好を」

なぜビルマの人々は
日本人に親しみを抱き、
天皇陛下のことまで
知っていたのか?

ビルマを支配していた
英国軍はビルマの部落から
離れた自家発電機の
キャンプを作って
ビルマ人とは無関係の
生活をしていた。

だからビルマ人で
英語を話す者は
英国人に使われた
ごく一部のビルマ人だけであった。

しかし日本軍は
ビルマ人の部落の中に寄宿して、
寝食を共にし、
まるで親戚のように接したため、
大抵のビルマ人は
日本語を覚えた。

そして日本の唱歌や軍歌も覚えた。

戦後、ビルマは
ミャンマーになったが、
ミャンマーの国営テレビ放送は
「軍艦行進曲」で始まる。

毎年行われる国軍記念日も
「軍艦行進曲」が演奏される。

日本の教科書にはいまだに
「日本はアジアを侵略した」
と書いている。

安倍政権も
「村山談話」を継承して
「日本は植民地支配と
侵略によってアジア諸国の人々に
多大な損害と苦痛を与えた」
としている。

多大な損害と苦痛を与えた国の
「軍艦行進曲」を毎朝流すものか?

ビルマ三十人志士で
ビルマ独立義勇軍将校であった
コドマインはこう言った。

「私の人生でこれほど
幸せだったことはない。

我が国から英国が追放され、
偉大なアジアの日本民族が
馳せつけて解放してくれた。

日本は我々の古代遺産と
領土と自由、宗教、文化を
取り戻してくれた。

私は死ぬ前に
この幸せな日を見ることが出来て
喜びに泣いた」

こういう真実の声が
教科書や政府に
まったく反映されないのは
残念である。