みなさんは皇居勤労奉仕
ご存知でしょうか。

いわば皇居内での
ボランティアなわけですが、
皇居と赤坂御用地で除草、清掃、
庭園作業などを行うものです。

15歳から75歳までの健康な男女で、
15人以上60人以下のグループで
申し込めば参加できます。

奉仕希望月の6ヶ月前から
予約申請できますが、
これがけっこうな人気を誇っており、
数ヶ月先まで予約で一杯だったり
することも多々あります。

ところでこの「皇居勤労奉仕」
なぜこれほどまでに人気があるのでしょう?

それはやはり皇室に対する国民の
気持ちの表れではないかと思われます。

それに普段なかなか立ち入ることのない、
皇居に足を踏み入れ、
広大な庭園を宮内庁職員に
案内していただきがてら奉仕活動をし、
さらには天皇皇后両陛下や皇太子殿下が
直接お声がけしてねぎら御会釈の
機械に恵まれるかもしれないとあれば、
その人気も納得なのです。

下世話な話ですが、
皇居内売店で菊の御紋入りの
和菓子などを購入したりもできるのも、
これまたポイント高いですよね。

この「皇居勤労奉仕」ですが、
そのはじまりは終戦直後の
昭和20年11月にまで遡ります。

皇居坂下門に突如二人の
青年が現れます。

二人の名は鈴木徳一、
長谷川俊(のちの衆議院議員)
といいました。

宮城県栗原郡の青年団のメンバーである
二人が言うには戦火で荒れてしまった
皇居外苑の草むしりをしたいとのこと。

連絡を受けた宮内省総務課長は
熱心な二人の話を聞いて、
即OKを出しました。

あまりにトントン拍子に話が進むので
二人はびっくりしたのだそうです。

そして12月8日、60余名の奉仕隊が
宮城から皇居へ集まりました。

とはいえ当時はGHQがアレコレと
目を光らせている時代です。

当時はすでに占領下にあって、
ことごとに占領下の抑制を受けている
極めてひどい事情の下にあるので
こういう申し出をされる方も命がけなら、
それを受け入れる決断をする方も
また異常の覚悟を要する状態でした。

皇室のために奉仕をするとなると
もしやGHQが逮捕しに来るかもしれない…

ふるさと宮城を出発するときには別れの
水盃を親族と交わしてきた者までいました。

さらに一度に全員逮捕されるよりは、
と奉仕隊を2隊に分けて出発隊を
まず派遣するという念の入れようです。

彼らにとっては決死の覚悟だったのでしょう。

話を聞いた昭和天皇はひとこと話をしたいと、
焼け落ちた宮殿の焼け跡の整理をしていた
奉仕隊のもとへ向かわれました。

まさか陛下にお目通りできるとは
つゆにも思っていなかった一同。

緊張に感激も加わり、身震いしてしまいます。

陛下は彼らに宮城の状況や列車の混雑の様子、
米作の作柄などをお尋ねになられ、御会釈は
半時間ほど続きました。

御会釈が終わり、陛下は踵を返して歩かれます。

そのお姿を見送る一同でしたが、
感極まったのでしょう、
誰からともなく君が代を唄いはじめ、
大合唱となります。

陛下は思わず歩みを止めて立ち止まり、
その歌声をじっと聞かれておられました。

歌声は涙声となり嗚咽も混じりましたが、
それでも最後まで唄いあげたのです。

これまで天皇陛下が国民と触れ合う
などということはまずありませんでした。

この奉仕隊との交歓こそが、
今現在も続く皇室と
国民の間のふれあいの最初の例。

このことが各地に伝わると、
我も我もと次々と奉仕団が結成され、
勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到しました。

翌21年に早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、
が勤労奉仕に参加しているのです。

ピークは昭和26年で、
何と4万人近くの国民が参加しました。

こうした動きに対してもGHQも
さすがに疑念を抱き、
背後に強力な組織があって、
巨額の資金を投じ、
彼らにとって良からぬ策謀を
めぐらしているのではないかと、
独自の調査を行ったそうです。

その情報をキャッチした海外の
メディアが奉仕団に取材をかける
ようなこともありました。

総力戦に敗れた国の君主制は
第一次大戦時のドイツや第二次大戦時の
イタリアのように滅びるのが通例です。

なのに日本の皇室の場合、
滅びるどころか多くの国民がボランティアで
皇居の清掃活動を行っています。

彼らが不審に思うのも当然です。

だがもちろん、そこには何の
背後関係もありませんでした。

人々のひたむきな皇室への
思いだけがあったのです。