戦時中、ケネディ大統領の
船を沈めた日本人とは・・・

昭和18年、
大東亜戦争で日本が
苦戦していた頃です。

ソロモン海域では
日米海軍が肉迫し、
連日のように死闘が
繰り広げられ、
特に日本艦船の犠牲が多く、
駆逐艦の蟻地獄
と言われていました。

駆逐艦「天霧」

8月2日の深夜。
日本の駆逐艦「天霧」が
ファーガソン水路に来ると、
前方800メートル先に
米国の魚雷艇を見つけます。

この魚雷艇は
日本のガダルカナルへの
海上輸送を阻止する
哨戒作戦に従事していました。

天霧の花見弘平館長は
「取り舵一杯」を命じました。

花見弘平艦長

速力30ノットの天霧は
すぐに距離を縮め、
逃げようとする米魚雷艇に
襲い掛かりました。

射撃するには
距離が近すぎるため、
天霧の艦首を
魚雷艇にそのまま突き刺したため、
魚雷艇は真っ二つになりました。

それにより天霧は
砲塔を壊しますが、
魚雷艇は一瞬で炎に包まれ、
沈没します。

花見艦長は魚雷艇の乗組員は
全員戦死と判断しました。

しかし、この時の即死は
2名だけで、残りの11名は
海の中に投げ出されました。

この米国の魚雷艇の
艦長はケネディでした。

ケネディは背骨をやられる重傷を
受けました。

しかし、それにもめげすに
ケネディは部下たちを
叱咤しながら、
サメの多い南の海を、
サメの恐怖を感じながら、
暗い海の中を救命具で
5キロ5時間かけて泳ぎきり、
なんとかサンゴ礁に
たどり着きました。

そしてツラギ基地と連絡を取り、
全員が助かったのです。

ケネディはこの時の傷が
原因で入院し、
その後も入退院を繰り返しますが、
回復せず、最後には
背骨の一部を削り取り
スチールを2つ入れたと言います・・・

昭和26年、
ケネディは米国で下院議員となり、
国際会議の帰路に
日本に立ち寄り、
日本外政学会の
細野軍治理事長と会い、
別れる寸前にケネディは
こう頼みます。

「ソロモン海戦で
自分の魚雷艇を真っ二つにした
駆逐艦の艦長は誰か、
探してくれ」

そして、その後調査すると、
この当時福島県塩川町の
町長をしていた花見氏だと
判りました。

ケネディは早速、
自分の写真の裏に
「昨日の敵は今日の友」と書いて、
手紙と一緒に花見町長に
送りました。

これにより2人の間には
友情が芽生えたと言います。

その後、ケネディは
大統領に立候補する事に
なりました。

ケネディはカトリック教徒で、
米国ではカトリックが三分の一、
プロテスタントが三分の二です。

そして過去にカトリックで
大統領になった者はいません。

相手候補はニクソンであり
プロテスタントです。

宗教感情の根強い米国では
ニクソン勝利と予想されました。

ケネディは花見町長に
大統領選の応援に来て欲しいと
頼みます。

しかし花見町長は多忙で行けず、
代わりに天霧の乗組員を
派遣しました。

その乗組員が米国に着くと、
各地で大歓迎でした。

かつてソロモン海域で
死闘を演じた敵が、
今は恩讐を超えて
選挙応援するその光景は、
米国民に感動を与え、
特に西部劇を好む米国人には
大いに受け入れられました。

米国で熱狂的な反響を
巻き起こしたこのことは、
当時日本の新聞でも
取り上げたくらいです。

選挙の結果は
得票率では0.04%という
わずかの差でケネディが
勝ちました。

このケネディ勝因の一つには、
天霧乗組員の応援が
あったと言えるでしょう。