気さくで、
分け隔てなく、
庶民との触れ合いを求めた
大正天皇。

1879年(明治12年)
8月31日午前8時20分、

明治天皇の第3皇子として
東京の青山御所で誕生しました。

生母は典侍・柳原愛子です。

幼少期は皇太后の実子であると
聞かされていたといい、

生母が愛子だと聞かされた時は、
たいそう驚かれたようです。

1887年9月、学習院に入学。
侍従(じじゅう)にせがんで軍隊の背嚢(はいのう)を
背負って登校します。

この「軍隊の背嚢」が
ランドセルの原型となる
逸話が残されています。

1894年には、
健康状態から学業を続けることが
困難であるとして、
学習院を中退。

その後は数人の教師による
マンツーマンの授業を受けました。

特に漢文を教えた川田甕江からは、
大きな影響を受け、
漢文を趣味としました。

九条節子

1900年5月10日、
九条節子と結婚します。
このとき節子は15歳でした。

この早婚について、
「病弱の太上太皇太子に早めの結婚を」
との意図がありましたが、

親から引き離されて寂しい幼少期を
過ごした親王にとっては
非常に嬉しい出来事でした。

結婚後は明治天皇とは対照的に
側室を置かず
一夫一妻を貫き、
子煩悩で家庭的な一面を見せました。

家族思いで、
子供らと相撲を取り、
家族団欒の夕食をとったといい、

馬とワインとタバコが
大好きだったようです。

健康が回復してからは、
沖縄県を除く全土を行啓しました。

巡啓中、
興に乗れば漢詩を創作しています。

明治天皇や昭和天皇が和歌を好み
多く詠んだのとは対照的です。

1907年、
伊藤博文や桂太郎を従えて
大韓帝国を尋ねています。

柳原愛子

皇帝や皇太子と会談したのですが、
その時、
皇太子の李垠(りぎん)をたいそう気に入り、
その後朝鮮語の勉強を始めます。

これは朝鮮に差別感の強かった
当時としては、
非常に珍しいと言えます。

1917年(大正6年)頃から、
公務や心労が病の悪化に輪をかけ、
公務を休むことが多くなり、

1919年(大正8年)には
食事をとることも
勅語を読むことも
できなくなるほど病状は
悪化していました。

1926年(大正15年)11月には
病状が極度に悪化し、

同年12月25日午前1時25分、
静養中の葉山御用邸において、

長く会えなかった
実母・柳原愛子(二位局)
の手を握ったまま崩御。
宝算47。

創作した漢詩の数は
実に1367首もあり、
質量とも歴代天皇の中でも
抜きん出ています。

和歌の数は
岡野弘彦の調べによると
456首が確認されています。

大正天皇の
歌の出来は相当なもので

特に
「清涼さ」
「透徹した描写」においては

明治天皇や昭和天皇よりも
優れていたと分析されています。

大正天皇の御歌について
丸田才一氏は….

「大正天皇は御水尾院以来
最高の帝王歌人である、

とにかく傑出した力量の持ち主で、

もしもこの才能を自在に
発揮させたならば、

吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、

あるいは彼らを凌ぐ、
大歌人になったに相違いない」

と評しています。

五木寛之氏も
大正天皇の短歌を絶賛し、

「歴代天皇の中で最高の歌人」

と評しているそうです。

皇太子時代に全国を巡啓し、

京都帝国大学(現:京都大学)
付属病院を訪れた時には、

患者に声をかけ、
患者が涙にむせんだといいます。

明治天皇は、
重臣やごく親しい人物にしか
肉声を発したことがありません。

大正天皇の気さくな言動は、
まさに画期的な出来事でした。

福岡県知事との会話の間に
持っていたタバコを
気軽に差し出したという
記録も残っています。

巡啓中には、
非常に気さくに、

身分も構わず気軽に声をかけました。

移動も特別編成の
お召し列車ではなく、

一般乗客と同じ
普通列車に乗り込みました。

兵庫県の陸軍大演習では、
いきなり旧友宅を訪問、

新潟県では
早朝に宿舎を抜け出して散策をし、

ある時は
蕎麦屋に入るなど

自由奔放に振る舞いました。