当時、日本はアメリカとの和解への道を
懸命に模索していた。

アメリカ・イギリス・支那・オランダによる
対日経済封鎖により

石油・ゴムといった資源のほとんどを
供給停止されていた為に南方進出を真剣に考えていた。

東南アジアの国々は
ほとんど欧米の植民地であ。

その国々を独立させ対等貿易を行えば
日本に生き残る道はある。

その為には
アジアから欧米の植民地支配を
排除せねばならないが
欧米と開戦できる国力は無い。

そんな状況下にありながらも
日本は日米開戦を回避すべく
ギリギリの条件を提示して
日米交渉の妥結を願った。

その条件「甲案」とは

  1. 日本と支那に和平が成立をした暁には
    支那に展開している日本軍を
    2年以内に撤兵させる。
  2. 支那事変が解決した暁には
    「仏印」(フランス領インドシナ)に
    駐留している兵を撤兵させる。
  3. 通商無差別待遇(自由貿易)が
    全世界に適用されるなら
    太平洋全域と支那に対しても
    これを認める。
  4. 日独伊三国同盟への干渉は認めない。

という内容であり
更に「甲案」での交渉決裂に備えて

日米戦争勃発を未然に防ぐ為の
暫定協定案として
「乙案」も用意してあった、

乙案は下記の内容である。

  1. 欄印(オランダ領インド
    =現インドネシア)
    での物資獲得が保障され
    アメリカが在米日本資産の凍結を解除し
    石油の対日供給を約束した暁には
    南部仏印から撤兵する。
  2. 更に支那事変が解決した暁には
    仏印全土から撤兵する。

要するに日本に対する
経済封鎖が解除され
石油などの資源が供給されれば

南方に進出する必要性は無くなる。

それと引き換えに日本も
全面撤退に応じるという内容である。

この事については
駐日大使ロバート・クレーギーが

帰国後政府に提出した報告書で

「日本にとって最大の問題は
南方進出では無く

耐え難くなりゆく経済封鎖を
取り除く事だった」

と書かれており、

日本の南方進出が
「領土的野心」などでは無かった事を
証明している。

しかし、アメリカは
戦争関係閣僚会議の翌日の
1941年(昭和16年)11月26日、

野村吉三郎、来栖三郎
両駐アメリカ大使に
「日米間協定の提案基礎の概要

(通称:ハルノート)」

を突きつけてきた。

ハルノートの主な内容は
以下の通りである。

  • 支那大陸やフランス領インドシナからの
    即時無条件完全撤退。
  • 汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて
    重慶の蒋介石政権(重慶政権)
    を支持する事。
  • 日独伊三国同盟の死文化

これらは到底日本が飲めない条件だった。

これはそれまで積み重ねてきた
日米関係修復のための交渉を
踏みにじる内容で、

それまでの合意を一切反故にした
一方的な要求であった。

支那・仏印からの即時完全撤兵、
蒋介石政権の支持という条件は、

日本が日露戦争の前の状態に
戻る事を意味し、

これまで日本が行ってきた事、
全てが水泡に帰すような要求だった。

日本に戦わずして降伏を要求するに
等しいものであり、

誰が見ても
明らかに最後通牒出会った。

ハルノートは日本の当時の指導部に衝撃を与えた。

もっとも和平を強く望んでいた
東郷外相でさえ、

「自分は眼も眩むばかり失望に撃たれた」
と述べた。

東郷は、
戦後次のように回想している。

「米国を指導者としての
対日経済封鎖のみならず、

軍事的包囲陣も日に日に強化され、
日本の生存も脅かされてきたので、

もはや立ち上がる外ない
という事だった。

『ハル・ノート』を
受諾した後の日本の地位が

敗戦後の現在の地位と
大差なきものになるべきである事は、
全く疑いの余地は無かった」

「日本がかくまで日米交渉の成立に
努力したにも関わらず、

アメリカはハル・ノートのごとき
最後通牒を送って、

我が方を挑発し、
更に武力的弾圧をも加えんとする以上、

自衛のため戦うの他なし
とするに意見一致した」

嶋田繁太郎元海軍大臣は、
東京裁判の法廷でこう陳述した。

「それはまさに晴天の霹靂であった。

アメリカにおいて
日本の譲歩がいかなるものにせよ、

私はそれを戦争回避のための
真剣な努力と解し、

かつアメリカもこれに対し
歩み寄りを示し、

もって全局が
収拾されん事を祈っていた。

しかるにこのアメリカの回答は、
頑強不屈にして
冷酷なものであった。

それは、
我々の示した交渉への真剣な努力は
少しも認めていなかった。

ハル・ノートの受諾を主張したものは、
政府内にも統帥部内部にも
一人もいなかった。

その受諾は不可能であり、
その通告は我が国の在立を脅かす

一種の最後通牒であると解せられた。

この通牒を受諾する事は、
日本の敗退に等しいというがのが
全般的意見だった」

東京裁判でパール判事は、

「アメリカが日本に送ったのと
同一の文書を他国に送れば

非力なモナコ公国や
ルクセンブルク公国でさえ

必ずアメリカに対し武力をもって
立ち上がっただろう」
と述べた。

セオボルト海軍少将は、

「まさしくハル・ノートは、
日本を鉄棒で殴りつけた挑発であった」

と述べて、
これを激しく非難した。

ジョセフ・グルー米駐日大使は
ハル・ノートを読み、

「この時、
戦争になるボタンは押された」

と開戦を覚悟したと回顧録で述べた。

ハミルトン・フィッシュ下院議員は
ハル・ノートの存在を知ると、

「恥ずべき最後通牒」と批判し、

「日本は自殺するか、
降伏するか、
戦うしかない」

と述べた。

開戦を選択せざるを得ない理由こそが
まさに『ハル・ノート』である。

これを読んだ日本国は

アメリカからの最後通告と
解釈したのである。