第1次世界大戦が終わった後、大正8年(1919年)にパリで講和会議が開かれました。

この会議は講和会議と並行して、世界恒久平和の為に「国際連盟」の設立が大きな議題でした。

日本はこの国際連盟の規約に人種差別の撤廃条項を入れることを強く主張しました。

この頃、アメリカで日系移民が差別されており、日本にとって大きな課題でした。

そしてこの日本に全米1200万人の黒人が大きく期待していました。

日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った時には、「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど黒人社会の指導者4人が、

世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」

ことに尽力してほしい、と嘆願書を出しました。

自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それを差し置いて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのです。

全米黒人新聞協会が発表したコメント

「我々(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせる日本に、最大の敬意を払うものである」

しかし、日本の主張は否決されます。

この報が日本国内に伝わるや、世論は「白人の暴挙」に憤慨、一致して「国際連盟不参加」に変わりました。

この主張の中心は大隈重信であり、猛烈な運動を展開しました。

日本は今度は「諸国民平等の原則」という言葉を規約本文ではなく前文に挿入するという提案を行います。

当初の案からは大きな後退でした。

この提案は交際連盟委員会17票中11票の賛成を得ましたが、委員長のウィルソン(アメリカ)は全会一致を主張し、遂に日本の提案は不採択となりました。

アメリカの黒人は自国の政府の措置に怒り、全米で数万の負傷者を出すほどの暴動に発展しました。

日本は江戸時代は鎖国していましたが、オランダとは交易があり、黒人が奴隷として売買されていることを知っており、オランダ人を軽蔑していました。

18世紀にスウェーデンの植物学者ツンベリーが来日し、「さざんか」をヨーロッパに紹介していますが、彼は日本にきてオランダ人の格好をしていた為、日本人から受ける視線が冷たいのに気付き困惑したと言います。

幕末の頃も

「奴隷制度を廃止しない連中は犬畜生」

というのが書にあるそうです。

明治5年にペルー船籍の奴隷船マリア・ルス号が日本に寄港した時、支那人奴隷が脱走し、助けを求めて来たため日本政府は保護し、支那人らを救助し、国際仲裁裁判で争い、勝訴しています。

日本には有史以来、制度としての奴隷制度はありませんから、伝統的に人種差別を嫌っていたわけです。

パリ講和会議で日本の人種平等の提案は退けられ、時の首相、原敬は国際連盟の参加・不参加の決断を求められました。

日本の世論は不参加でした。

しかし、原首相は米英に屈し、世論を押さえて参加の調印に踏み切りました。

この時、日本の主張は通りませんでしたが、第2次世界大戦後、昭和23年、国際連合で「世界人権宣言」が採択され、人種差別は撤廃されています。

日本の主張は正しかったのです。