1910年

日本は韓国を併合しました。

何故日本は、韓国を併合したのでしょうか。

その前に、

1800年代終わり頃、日本は2つの選択肢からいずれかを選ぶ必要がありました。

  1. 先進国の植民地になる事。
  2. 近代化を進め植民地を持つ様になる事。

日本は後者を選びました。

日清戦争1894年の始まる10年前

日本と清は朝鮮の主導権争いをしていました。

日本は朝鮮を独立させたい。

その争いを終わらせるため日本と清は朝鮮についての取り決め天津条約を結びます。

  • ボヤボヤしているとロシアに取られる!と言った危機感
  • 勝手な話ではありますが、これが現実です。

併合の16年前 朝鮮出兵

1894年朝鮮で東学党の乱が起こります。

朝鮮は自国だけで鎮圧出来ないため清に出兵の要請をします。

それを知った日本は天津条約を名分に出兵します。

瞬く間に京城(ソウル)を占領します。

そして新国王を擁立、新政府を作らせ、清からの独立宣言をさせます。

当然、清は黙っていません。

日清戦争

日清戦争1894年は朝鮮の独立を妨害する清が悪いという大義名分の文明国の戦争であると世界にプロパガンダをします。

これは世界の支持を集めました。

当時清も軍備拡張中で最新型の戦艦も2隻保有していました。

清はこれが自慢だったので東郷長官などにも見学をさせています。

日本は、船は立派だがモラル・士気・練気は劣るとの評価をしていました。

 

そして開戦・・・

 

文明国の戦争の証明をしたい日本。

列強注目の中

 

日清戦争 圧勝

 

ロシアの人気

清に勝った日本は下関条約を結びます。

第一条は”朝鮮の独立を認める”です。

他色々ありますが、中国本土の一部租借はロシアのイチャモン三国干渉により断念します。

日本はこの頃からロシアとは予測していました。

三国干渉により清と朝鮮はロシアが強い国にみえたのか接近するようになります。

朝鮮のロシア接近

高宗
閔妃

朝鮮王 高宗(コジョン)はロシアに接近します。

日本はそれを阻止しようとします。

高宗以上の権力者の閔妃(ミンピ)が裏で画策しているのを知ります。

1895年日本は謀略で朝鮮人に閔妃を暗殺させます?(真相は不明)

高宗はロシア公使館へ逃げ込みます。

こうなると手も足も出ません。

高宗はそこで親露政策をとりクーデターを画策します。

  • 朝鮮は強いものに従う文化があり、ロシアが強くて良い国に見えた?

 

余談になりますが・・・

大院君

高宗の父の大院君は骨のある人でした。

この頃の朝鮮は、日本の幕末のように鎖国攘夷派、開国派に別れ争っていました。

この大院君は強烈な攘夷派で欧米諸国の船を攻撃するなどしましたが欧米は泣き寝入りしています。

しかし開国派に退位させられます。

その後、王となったのが高宗です。

こう高宗は親と違い優柔不断な人物です。

また大院君は高宗の后として閔妃を送り込んでいます。

もう一つおまけに・・

1885年福沢諭吉の脱亜論

西洋文明が東洋世界の押し寄せている。

これは世界の体勢である。

日本は西洋文明を取り入れ新機軸を打ち出している。

ところが隣の支那・朝鮮は何の改新、自省がない。

これでは独立どころか、

日本も同じ様に見られ不利益を被る。

日本が取るべき方策は、脱亜を果たし、アジアに対して西洋と同じ方法で望むべきである。

日本興論も概ねこれでした。

ロシアとの取引

日本は、

1896年 ロシアに取引を持ちかけます。

朝鮮を北と南で分けようと・・・。

1898年 日本は、ロシアの大連と旅順租借は認めるが朝鮮は日本が貰うと・・・。

1900年 中国で義和団事件が起こります

連合国側の日本は、これはチャンスと見て大活躍をします。

これで日本の発言力も大きくなります。

そしてロシアは満州を、日本は朝鮮を貰うと取引をします。

  • これが現実の外交なのです。

韓国独立

小村寿太郎
伊藤博文

朝鮮王 高宗は1897年皇帝となり、大韓帝国が誕生します。

ところが高宗は中立国になるなどと我がままを言います。

しかし世界はそんなに甘くはありません。

日本にとって京城は日露戦の重要拠点なのです。

この頃

1902年小村寿太郎は日露戦を想定し日英同盟を結びます。

伊藤博文は日露戦は避けたいと思って活動していましたが実を結びません。

結局、英国と日本の国益の一致から日露戦争1905年〜1906年が始まります。

 

そして日露戦争 辛勝

韓国を保護国 = 植民地に

日本は1905年ポーツマス条約で韓国を日本が支配する事を世界に認めさせます。

英国は勿論の事、米国にはフィリピン支配を認めることでルーズベルトも了承します。

日本は即、韓国の外交権を奪いにかかります。

交渉は伊藤博文です。

海千山千の伊藤の詭弁と世間知らずの高宗では相手になりません。

1904年 第一次、1905年 第二次日韓協約を調印します。

外交権が日本に移る事は、朝鮮は外交が一切出来ない事です。

  • 戦前と言えども力だけでは他国を支配する事は出来ません。力と大義・道理があって初めて世界が認めるのです。日韓協約は実質的な保護国=植民地でした。
  • この頃韓国の人口約1300万人

高宗がハーグに密使

第二次日韓協定の無効を訴える高宗の英国宛の親書

高宗は1907年隠密裏にハーグ平和会議に密使を派遣します。

日本の弾圧を訴える為にです、しかし列国は相手にしません。

世界はそんなものなんです

それを日本が知り、協約違反、背任行為と恫喝し、高宗を退位させます。

 

 

安重根

そして1907年第3次日韓協約調印が結ばれます。

  • 京城の韓国兵6000人の反乱を警戒 武装解除を企む。
  • 1909年伊藤博文は安重根に暗殺されます。伊藤は日韓併合に反対だったが、これに限らず何でも反対の人でした、後日には併合賛成に回っています。 

 

日韓併合

 

日韓併合(1910-1945年)前の朝鮮。飢えと貧困にあえぐ人々。 [1880年代のソウル南大門大通り(中心街)] 日本はこの朝鮮を建て直した。

1910年 韓国皇帝が統帥権を日本国天皇に譲与します。

日韓併合です。

保護国(植民地)のままにしておくか、併合をするのか、日本は併合を選択したのです。

韓国は併合を望んだのです。

併合する事は日本になる事です。

韓国を本土と同様に近代化する為の莫大な経費を日本が負担することになります。

  • 韓国には資源は少ない、収益よりも、ロシアの防波堤としての価値を優先させたのです。
  • 搾取が目的の欧米は絶対やらないでしょう
日韓併合時代中、1936年のソウル、南大門通り。
日韓併合時代中、1936年のソウル、南大門通り。

韓国では日本の保護国化や日韓併合に対して反乱などは無かったのでしょうか。

当然ありあました。

しかしそれは韓国の国内問題だったのです。

  • 1906年〜1910年まで排日武装集団(反乱軍)と韓国の守護隊・憲兵・警察との戦隊で反乱軍 約18000人が死亡
  • 韓国軍解体 1905年 25000人 1907年 9000人 → 600人
  • 韓国人の反乱を韓国人が鎮圧します。
  • 同じ国の国民と国民が戦う悲しい出来事です。

 

 

ソウル南大門前で、日本併合歓迎で祝う一進会・・自称100万人の最大政治団体)

日韓併合はこれから大東亜戦争 終戦までの35年間続きます。

日韓併合とは、日本の一部であり、日本人同様の権利が与えらていました。

そして半島には、本土の困窮より優先して予算が付けられたのも事実です。

搾取が目的ではないので、当然といえば当然ですが、半島の近代化のため、特にインフラ整備に力を入れました。

発電所を築き、上下水道す整備し、学校病院を作り、鉄道を敷き、植林を進め、農作物収穫高を高め、人口は倍増しました。

  • 今の価値で5兆円の税金の投入?
  • 差別もあったでしょう、それは時代背景を考えると仕方の無い事です。
  • しかし欧米の植民地とは全く違うものです。

最後に事実と推測を整理してみよう

日韓併合は・・・事実です。

韓国皇帝から併合の申し入れがあった・・・事実です。

武力をバックに併合を迫った・・・推測です。

韓国国民の多くは歓迎した・・・事実です。

世界各国は併合を承認した・・・事実です。

日本は併合で韓国を繁栄させた・・・事実です。

日本は韓国から搾取した・・・大赤字です、植民地ではないのです。

韓国人に人権は無かった・・・憶測です。原則は平等です。

併合に反乱は無かった・・・事実です。小競り合い程度はあった。

併合されて良かった、悪かった・・・どちらも憶測です。

 

  • 元大統領 朴正煕 (前大統領 朴槿恵の父)の言葉 日韓併合は悪い事ばかりではなかった。